穴っぽこレコーズ第一弾
HortNecks『生活によろしく』レビュー


私が好きなロックバンドの、最後の音源。
イメージは夕方から夜中…夜明け…。
楽しい夜から冷たい夜、誰かと一緒の夜、ひとりの夜まで、
泣き出してしまいそうな感情のぐらつく瞬間をパッケージしたような、全六曲。

「予感のような町」と「生活によろしく」が、もう、大好き。
こんなこといいはじめたら、全曲なんだけど…、だめだー決められないー。

予想外で独自の香りを持つ色彩豊かなメロディライン、
内的世界を見つめて煮詰めたようなユニークな言葉のならび。
ゴル健の詞には、どっかで聞いたようなフレーズがないように感じる。

力強く幅の利くギターも、
楽曲の中に溶け込むようなベースも、
演奏も詞も声も、
聞けば聞くほど大好きでたまらなくなる。


 2011.01.17
 ちぃ(メルマガサイト『関西からロックを伝えに参りました』)
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“生活”という魂を音楽に込める、HortNecksという稀有なバンドについて

ハッキリ言って“音楽=応援歌”と考える人にはあんまりやさしくない。
だけど、すこしでも音楽を“自由への糸口”だと考えるアタマがある人には、
届いてほしい音楽だ。

彼らのことばは、巷に溢れる暇潰しのやさしさとはワケがちがう。
つまらない世界を偽るために吐き出された心のメッセージでも、
そんな世界から逃げるために作り出された妄想のストーリーでもない。
HortNecksというバンドが鳴らしているのは、目の前の困難な現実を
受け入れる覚悟を持った人でなければ聞き取ることのできない「生活賛歌」だ。

六畳ほどの小さな部屋で反響する自分の声に耳を傾けながら、
何度も削り落とし研ぎ澄ました末に放たれたような、ことばの塊がある。
そのひとつひとつをほどいて練って、うねりや熱、湿り気、匂い、厚み、
重みを吹きこんでいく音がある。
そうしてはじめて、紙切れに書かれた文字が、そのことばを綴った人間が、
その人間の脳内が、脳内を作り出している景色が、生活が、
そこから生まれた音楽が、自分に届いていることを実感できる。
わかるかな、このバンドが持つ奇跡を。

複数の人間が折り重なって、
明確な一人称の存在として、ことばを届けている軌跡を。

おそらく彼らには“唄わなければいけない/鳴らさなければいけない現実”
――それは日々の生活の中で自分たちが見えてしまった映像や、
聴こえてしまった音の群れ――があるんだと思う。

ないものを抽象的なことばに頼って膨らませる人は多いけれど、
実際に見えてしまったモノを描こうとする人のことばは世界を削るようにして放たれる。HortNecksの場合、その選択が一人の人間の存在を強固にしているんだと思う。
直接的な出来事、描く風景、強い決意や衝動的な感傷、
胸の痛みまで――複数の現実がないまぜになって、
ひとりの人間が口ずさむ「生活賛歌」になっているこの不思議。
そこにこそ、このバンドの尊ぶべき才能が隠れているような気がした。

もしこれを読んでこのバンドに興味を持ったなら、いまからでも遅くない。
だって彼らはいまこの時代を生きているどこかの誰かだから。
矛盾に溢れた毎日の生活の中で、この先もずっと音楽を鳴らし続けるはずだから。
そのどこかで出会うチャンスはまだまだある。
同じ時代を生きるって、そういうことでしょ。

 2011.01.18
 寒田瑠花(『カレッジ大学』ポップンオンガクブ教授/穴っぽこレコーズ)
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ここに一つのりんごがある。
私たちは、このりんごを、うまそう、まずそうとか値段が高そう安そうとか、
新鮮さの度合いとか種類はなんだとかを見る目で見ているが、
そのりんごにふと違った目を向けることがある。そんな時、
たとえばその果実は造化の神秘のあらわれとしてわたしたちのまえに置かれる。
<造化の神秘>は日常の目の死によって見えるものであり、
社会的価値の物語を、わたしたちはそういった時に<殺し>ているのだ。
〜省略〜
りんごが、社会の中のりんごであり、同時に宇宙の中のりんごであるように、
わたしたちの存在も、社会存在であり同時に生命存在である。
        太田省吾「なにもかもなくしてみる」より。(※)

太田氏はわたしたちの「からだ」の二重性について語っている。
一方は日常を支える社会のという制度の中での機能体としての「からだ」。
そしてもう一方は社会や制度に回収されない、
いわばむき出しとも言える一個の生命体としてのわたしたちの「からだ」である。
映画館で、あるいは劇場での上映の前に照明がおちる際のあの独特の高揚感は
われわれのからだが社会存在から緩やかに生命存在の側に切り替わってゆく過程が
もたらすものではないか。

HortNecksが提示するものはそうした「もうひとつのからだ」への接近である。
寝ている体の下半身、人間の骨、裸、お尻、血、何も食べたくない、走りだせた、
ゴル健氏の詞にはからだやそれをイメージさせる言葉がしきりに使われている。
そして、彼らはその詞の中のからだに
異物感・ノイズ・思うままにならない自己への他者性。
そして血の流れを確かに感じさせてくれる。
ここで取り扱われているからだが太田氏の言う社会的価値の物語の内側で
語られたもの、つまり安定した記号としての身体であるなら
彼らの楽曲は成立しないであろう。
しかし彼らの音楽は制度の外側からわたしたちに
「生命存在としてのからだ」を提出している。
記号に収まらない不安定なからだを描くからこそ
彼らの楽曲はどこかに着地をするわけでも、特定のメッセージを発するわけでもなく、
どんなものも記号化して安心しようとするわれわれの本能からすり抜けていく。
制度の外に立つ楽曲、そして言葉が近年ますます希有なものになっていることは
誰もが実感として持っていると思う。
だからこそ彼らが見せる「血のかよったからだ」に僕は惹かれる。

 2011.01.17 はまさき

(※)太田省吾…劇作家・演出家。劇団転形劇場主催者。
   「なにもかもなくしてみる」(著者:太田省吾/五柳叢書/2005.11)

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